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ダムに沈む村 〜消え行く温泉街・里山・吾妻渓谷〜
ダムに沈む村 〜消え行く温泉街・里山・吾妻渓谷〜
川原湯
ダム。黒部ダム(富山県)や宮ヶ瀬ダム(神奈川県)を例に出すまでもなくダムは現代人の都市生活を支える電気や治水、都会の水がめとして必要不可欠なものとして存在している。一方、脱ダムの動きが出ているのも事実。そんななかで”首都圏最後のみずがめ”といわれる八ッ場(やんば)ダムの建設が半世紀の歴史をへて”新たなる未来”に向けて動き出そうとしている。沈みゆく温泉街・渓谷・国定記念物・里山・・・そして人々の暮らし・・・。沈み行く村を訪ねるとともに、生まれ育った村がダムに沈む、その思いを一冊の本にまとめた群馬県・川原湯温泉「雷五郎」を経営する豊田政子さんにお話を伺った。
都市を支えるダム建設と沈む里山の暮らし
  幼い頃 薄暗い台所の隅に 大きな水瓶が 一つあった
夏の暑い日 柄杓で飲む一杯の水は とてもうまかった

川から 子供はバケツで水を運び 女は桶の水を天秤で担いだ
川で洗濯をする人 大根を洗う人 井戸端会議も賑わった

戦争が終わって 何年か過ぎて 川から竹竿で水が来るようになった
大雨が降ると すぐに水は止まった
父がシベリアから帰ってきた年 水道となった 革命
蛇口を何度も何度もひねってみた

このうまい水を飲みに 娘は 東京から帰ってくる
「このお茶はうまいねー」と 旅人は言う 「水がうまいんだよ」と答える

左側に 小さな大沢川 目の前に 大きな吾妻川 川の音が私は好きだ
眠られぬ夜は語りかけてくれる 眠るときは子守唄に聞こえる

この うまい水 この川がダムになることが決まった
今 私は住むところを追われようとしている
憤りは消え 川を眺めながら ボーッとしている                         
(『ダムに沈む村』より)
   
自然ねっと
ダム建設の計画が発表されたのは1952年と聞いていますが、当時はどんな状況だったのですか。
豊田さん
17歳の夏だったでしょうか。学校から帰ってきたら祖父から「ここはダムになるんだぞ」っていわれたのが最初でした。ダムって言葉もまったく知りませんでしたから、ぜんぶ沈んでしまうとわかってショックを受けたことを覚えています。その後は今は取り壊してしまいましたが、木造校舎の第一小学校にみんなうちを空っぽにしてむしろ旗を持って集まりました。
自然ねっと

三里塚(成田)闘争とも比べられる大きな社会問題だったんですよね。

豊田さん
こちらから勉強に三里塚にいったりもしましたね。向こうからもこられましたが、地元のことは地元でと、御願いしてひとまわりだけしてもらって帰ってもらった記憶があります。長いダム建設反対闘争の中で徐々に反対派・賛成派・条件付賛成派とか様々な立場に分かれていったんです。町長が反対すればダムはできないだろうと子供を引っ張って近隣の村を一軒一軒まわって反対派の候補を応援しました。当選したときはみんなで「これでダムはできなくなると」泣きました。
 
自然ねっと
それでもダム建設は中止にはならなかったんですね。
豊田さん
反対していると国からいろいろな予算がでないんですね。4期町長をやってもらったのですが、街が成り立たなくなってきたんです。建設省(現・国土交通省)の人や工事の人が来ると鐘を鳴らしてみんなに知らせたりすることもありました。ですから工事は進まなかったのですが、相談所なんかは知らない間に建っていましたね。朝方や寝ている時間に作るんですね。本格的な工事が始まったのは平成になってからです。工事が始まって、ああ、負けたんだなって実感したんです。国と戦うっていうのは大変です。昼間働いて夜は会議・会議・・・食べていかなければ反対運動もできませんから。違う村に出て行ったり、子供さんを頼って都会へ出て行く人も多いですね。
 
 
ダムに沈む村の
田んぼはひからびて
ガマの穂は破裂し
畑は草が生い茂って枯れ
荒れはててせつない

ダムに沈む村の
石仏は柔和
お墓は無表情に
西を向いて
高台から
村を見守っている

ダムに沈む村は
誰もいない
太った野良猫が一匹
日向ぼっこをしている
空っぽの電車が通り過ぎ
国道は大型ダンプカーが
忙しく行き交う

私の生まれた
ダムに沈む村は
美しい渓谷と
ひなびた温泉場
六月になると仏法僧は鳴き
山には大好きな山野草が
咲き乱れる
     ・
     ・
     ・
(『ダムに沈む村』より)
川原湯のこれから
自然ねっと
自然が壊されるのはもったいないとかダムの必要性はもうないとかいう意見もあります。また、ダム建設後の代替地もありますが、今後はどうされるのですか。
豊田さん
歳ですからもうわかりませんが、そろそろ考えなくてはならないんでしょうね。若い人は新しい夢を持って新しい川原湯、新しい街つくりをはじめています。反対を叫ぶ都会の人たちがいますが、今ストップしたら川原湯が死んでしまいます。良い川原湯を作ろうとしている若い人たちも私も毎日工事の中で暮らしています。複雑な気持ちですね。
編 集 後 記
八ッ場ダム。なじみのないこのダムの名前が今年の5月1日に全国各地の新聞で大きく取り上げられたのを記憶している人も多いだろう。吾妻川(あがづまがわ)の中流、”関東の耶馬溪”とも称される吾妻渓谷に半世紀以上前に関東地方の一都五県に水を供給する目的で計画された”首都圏最後の水がめ”は川原湯住民の合意によって、半世紀にも及ぶ長い歴史を乗り越えて次の段階に進もうとしている。私たちは、うらみやつらみを飲み込んで発せず、しっかりと未来を見つめる人たちの声をしっかり受け止め、考えていかねばならないだろう。

『ダムに沈む村』(上毛新聞社)
豊田政子 1936年生まれ。
【参考URL】
民宿「雷五郎」:http://www3.ocn.ne.jp/~raigoro/
川原湯観光協会:http://www.kawarayu.jp/
八ッ場ダム工事事務所:http://www.ktr.mlit.go.jp/yanba/
2005年5月取材
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